ホラーハウス社会
芹沢一也の『ホラーハウス社会 法を犯した「少年」と「異常者」たち』を読んだ。
少年犯罪や精神障害者による犯罪について。
タイトルの『ホラーハウス社会』というのは、「不安な社会を生きること」をまるで遊園地のホラーハウスの中にいるかのように楽しむ社会のこと。
例えば地域での防犯活動などを通じたコミュニティ活動が、その枠にとらわれずライフスタイルとして消費されているというのがその例だ。
それ自体には一見なんの問題も無いように見えるが、そこには「反社会的な存在」のような者を排除してしまう考え方がある。
その背景には、戦前から戦後にかけての異常者に対する社会的な見方や、政治的経営的な利害関係の問題があり、少年犯罪に対する世論、そしてその世論に後押しされる形で変わっていくシステムの問題があった。
というのが筆者の主張である。
冷戦という対立構造、大きな物語の終焉によって、社会は対峙すべき「敵」を見失った。
その結果が、過剰な安全欲求ではないか。
本書の中で紹介されているが、「割れ窓理論」による不安要素の排除は、どんな小さなことでも社会の秩序を乱すような行為を社会の敵とみなすことに繋がる。
敵を作ることで安易に物語を作りながら、自らの作った物語の醸し出す不安感・圧迫感に苦しめられる。
しかもそれだけではすまない。
社会として敵を作った以上、その敵とされた人たちは何らかの不都合を強いられる。
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凶悪犯罪は増えてもいなければ、犯罪自体の凶悪化もしていない。
ではどうしてそう感じるのか。
筆者は被害者サイドの発見(と、以前からあった加害者少年の不透明性)を上げる。
理由の理解できない動機に対し、90年代まであまり取り上げられてこなかった被害者(家族)の存在は、事件のストーリーを読むための唯一のツールだ。
動機が不明で不気味な存在『触法少年・異常者』と、巻き込まれた被害者。
これまで無視されてきた被害者側が、加害者情報を知ることができるのはいいことなのかもしれない。
しかし犯罪者理解を遠ざけるものでもある。
加害者を理解しようとすること自体は、加害者側に立つことではない。
事件の理解のために、できるだけ多くのパーツを揃えるために必要なことだ。
だから、被害者側の情報、加害者側の情報、そして客観的な情報が平等に扱われる必要があるけれど、それは理想論だ。
現実的に、新聞やテレビの情報程度で事件をそれほど多角的に知ることは難しい。
多くの人は、自分が消費しやすい、つまり理解しやすい形の物語を消費することを選択する。
その結果形成された世論(輿論ではない)が、より少年や『異常者』を阻害してしまう現実というのは、理解出来ないものの徹底排除だ。
大きな物語の衰退で、価値観自体も相対化するはずが、かえってその無根拠感故に、自分が今いる場所を強固に守ろうとしている結果がこれではないのか?
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『ホラーハウス社会』は、現在においてあらゆる行為がエンターテインメント化していることのひとつの現われではないかと思う。
ECOしかり、なんらかの社会運動しかり。
個別の問題の解決のために集合したコミュニティがその問題解決後もそのまま何かしらの運動を続ける。
それは単に個人同士のつながり以上の問題であり、手段の目的化である。
否定をするつもりはないが、しかしその活動のために犠牲になるものがある可能性を考えなくてはいけない。
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文章も読みやすく、論点をはっきりと提示しているので、理解しやすいし、内容も専門的ではないのでおすすめです。
芹沢氏の『犯罪不安社会』を読み返そうと思ったら、手元になかった。
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